とある都心の居酒屋。
「あーもうっ、腹が立つ!」
桜川礼奈はビールのジョッキをがん!とテーブルに叩きつけた。
「桜川さん、落ち着いて」
同席している沢渡奈津子がなだめる。
店内の客や従業員の視線に気づき、礼奈は「すみません」と頭を下げた。
「でも、本当に悔しいんです。今度こそは、と思ったのに・・・!」
日本の経済界のみならず政界にまで大きな影響力を持つ大財閥、久峨コンツェルン。
しかしその急成長の裏には各種の違法行為や裏社会とのつながりなど、様々な黒いうわさが囁かれており、それ絡みでの不審死者も少なからず出ている。にもかかわらず疑惑が持ち上がるたびに不思議な力が働き、うやむやの内に終わるのが常だった。礼奈も久峨コンツェルン関係の事件の捜査に度々関わってきたものの、その多くは実を結ばないまま終了となっている。
そんな中での今回の事件、とある変死事件から久峨コンツェルン傘下の大手ゼネコン・久峨建設と下請け業者の間の違法なリベートやキックバックの疑惑が持ち上がり、一大汚職事件に発展しそうな可能性を帯びてきた。礼奈達警視庁特別広域捜査課も捜査に加わり、いつものようにどこからかかかってくる圧力やら妨害を跳ね除け、かわしながらようやく突破口として久峨建設幹部の逮捕にまで漕ぎつけた。
が、今度は弁護士を名乗る女が現れて、手続き上のわずかな不備を突いて不当逮捕だと強硬に抗議してきたのである。さらに諸々の「大人の事情」も加わり、結局容疑者は処分保留のまま釈放、捜査自体も打ち切りとなってしまった。
「確かにこちらの不手際もありましたけどね、いつもこうなんです。
一体誰に忖度しているのか!」
上層部を罵りながらも、彼女が一番腹を立てているのは不覚を取った自分自身に対してなのだな、と奈津子は礼奈の心中を推測する。酒の席で職場の愚痴を聞かされるのはいつものことだが、最近酒量が増えてきたようなのも気にかかる。
奈津子は時折相槌を打ちながら礼奈のまだまだ続く話に耳を傾けつつ、二人で飲みに行くようになったのはいつからだろうか、と考えた。
(初めて会ったのは・・・まだ新人だったころ、
圭介さんに連れられて法医学教室に来た時だったかしら)
夫は見所のある奴だと礼奈に目をかけ、熱心に指導していた。奈津子も法医学の見地から度々彼女にアドバイスをしているうちに個人的にも親しくなり、夫の亡きあともずっと親交は続いている。
夫の期待に応え、礼奈は正義感と責任感が強く、犯罪被害者や社会的弱者への思いやりも忘れない、良い刑事に育った、と奈津子は思う。ただ上司に対しても臆せずものを言い、時として周囲との軋轢も辞さない姿勢であるとも耳にしており、職場で孤立してはいないだろうかと心配でもある。
(斐川君がいてくれればよかったのに)
現在ブレイバーフォース日本支部の隊長を務める斐川喜紀は、かつて警視庁で礼奈の後輩刑事でありバディだった相手である。実直で温和な人柄で礼奈をよくサポートしており、はた目にも息の合うコンビだった。レギウスに覚醒しブレイバーフォースに引き抜かれたのだが、向こうでは慣れない隊長職を任され彼もまた苦労していると聞いている。
奈津子は目の前の礼奈に視線を戻した。今回のことは痛恨事だったろうがもはや是非もない、気持ちを切り替えていくしかないだろう。礼奈が口を閉じたのを機に、やや強引な気もするが話題を変えることにした。
「まあ雨の日もあれば晴れる日もあることだし、次の機会を待つしかないでしょうね。
最後に勝つのは待つことができる者よ。それより私としてはあなたのメンタルが心配だわ。
少し気分転換してみたら?
そういえばグリーンスマッシュにもここしばらく顔を出さなかったでしょう?」
「・・・そうですね。みんな元気にしていますか?」
「元気すぎるくらいよ。あなたが来ないので寂しがっているわ」
「どうせ部室でお菓子でも食べながらおしゃべりしてばかりでしょう?
・・・フフッ、久しぶりに少し揉んでやりますか」
礼奈はようやく笑顔を見せた。
たまっていたものを吐き出してすっきりしたようだ、と奈津子は安堵した。
「そういえば優香ちゃんは?」
「今日は日野さんの家にお泊りですって」
「私も学生時代はよく友達の家に泊まったものです」
奈津子が礼奈にグリーンスマッシュのコーチをやらないかと誘ったのは、単に彼女がテニス経験者だと知ったからだ。しかし思った以上に彼女自身のストレス解消にも役立っているらしい。声をかけてよかった、と奈津子は思う。
この世はままならないことばかり、それでも前へ進んでいかなければならないなら気持ちは少しでもポジティブな方が良い。数時間愚痴を聞いてやるくらい何でもない。今夜はとことん付き合ってやろう、と奈津子は決めた。酔いつぶれたら家に泊めてやっても良い。
「すいません、ビールもう2杯!」