ある日の夕刻。
そば屋・上総堂の店主である祖父の稲垣岳玄から卵の買い出しを頼まれた稲垣千秋は、
薄暗い中を早足で近所の業務用スーパーマーケットへ向かっていた。
この日は予想よりも客がずっと多く、厨房の食材が尽きそうになってしまったのである。
「早くしないと、卵を切らしちゃうかも……」
千秋が住んでいる安土市観音寺町の外れには、
今は使われていない古い錆ついた廃倉庫が並んでいる一帯がある。
心霊スポットとしても知られる、明かりや人通りのほとんどない薄気味の悪い場所だが、
急いでいた千秋は近道をしようと、表通りを外れてその寂れた空き地を通り抜けることにした。
「なあ、ちょっと待ちなよそこの彼女!」
「えっ……」
幽霊は出なかったが、代わりに千秋はもっと厄介な相手に遭遇してしまった。
この廃倉庫はいつの間にか、地元の不良たちがたむろする溜まり場になっていたのだ。
「お姉ちゃん可愛いね。ちょっと俺らと遊ぼうよ」
「凄え気持ち良くなれるクスリあげるからさ」
「そんな……困ります!」
髪の毛を派手に染めた若い男の四人組に取り囲まれて絡まれる千秋。
話からして違法ドラッグに手を染めているらしく、テンションがやや異常な感もある。
「おいおい、言うこと聞いてくれねえと痛い目に遭っちまうぜ?」
「いいからこっち来いってんだよ!」
「や、やめて下さいっ!」
千秋が困惑しつつも毅然と誘いを拒否しようとするのを見ると、
初めは軽薄だった不良たちの態度も次第に恐ろしく乱暴なものになっていく。
やがてリーダー格の不良は千秋の腕を掴み、強引に自分の元へと引っ張り寄せた。
「だ、誰か助けてぇっ!」
「うるせえ! 声を出すんじゃねえ!」
千秋が大声を上げて助けを求めたので、不良たちは遂に力ずくで彼女を押さえつけようとした。
だがその時、眩しいバイクのヘッドライトの光が、
けたたましい爆音と共に遠くからこちらに猛然と近づいてきたのである。
「おい、お前ら……」
「こ、耕司くん!?」
急ブレーキをかけて停車したバイクから降りた青年は、千秋が昔からよく知っている男だった。
不良たちもその顔には見覚えがあるようで、一瞬わずかに動揺が走る。
「てめえ、もしかして江星の黒津耕司か?」
「ああ。覚えてもらえて光栄だ」
黒津耕司、17歳。
千秋の幼馴染で、同じ安土江星高校の2年生。
だが今では近所でも名の通ったヤンキーで、学校にも行かず、
バイクで安土の街を走り回っては喧嘩に明け暮れる毎日を送っている。
この界隈のチーマーや暴走族たちの間でも、
どんな敵にも負け知らずという彼の存在は有名になっていた。
「いい所に来たな黒津。たっぷり可愛がってやるぜ」
「俺たちを舐めんじゃねえぞ。この野郎!」
四人の不良たちは耕司をリンチしようと次々と襲いかかる。
だが、耕司はたちまちその中の一人を殴り倒して地面に沈め、
もう一人を腹への膝蹴りで悶絶させ、後ろから組みついてきた一人を背負い投げで叩きつけ、
残った最後の一人に掴みかかって首を絞めた。
「ぐっ、離せ! 苦しいっ……!」
「耕司くん、もうやめて!」
さすがにこれ以上はやり過ぎになると思った千秋が声を上げて制止すると、
耕司は無言のまま手を離し、相手を突き飛ばして後ろへ転倒させた。
「畜生、覚えてやがれ!」
「フン……」
捨て台詞を吐いて逃げて行く不良たち。
やれやれと溜息をつきながらそれを見送った耕司の元へ、
千秋が駆け寄ってきて笑顔を見せる。
「助けてくれてありがとう耕司くん。久しぶりね」
「おう。しばらくだな千秋。
こんな場所、女が一人で来るもんじゃねえぞ」
千秋と同じ中学校を一緒に卒業し、同じ高校へ進学した耕司だったが、
高校生活が始まって程なくして不登校になってしまい、
その後は近所に住んでいる千秋ともほとんど顔を合わせず疎遠になっていた。
こうして会うのも数ヶ月ぶりのことである。
「耕司くん、元気してた? 鬱屈しちゃう気持ちも分かるけど、
そろそろ進路とかも真剣に考え始めなきゃいけない時期なんだし、
学校はできるだけ来た方がいいと思うわよ」
「余計なお世話だ。学校の勉強なんざだるくてやってらんねえよ。
将来のことも、どうせなるようにしかならねえだろうしな」
「もう……。事情が事情だし、頑張れとか早く立ち直れとか無理言うつもりはないけど、
そんな風に自棄っぱちになっててもいいことなんてないわよ」
「別に立ち直れてないわけじゃねえよ」
以前は真面目で優しかった耕司が、心に闇を抱えるようになった理由を千秋は知っている。
一年前、彼は自宅に乗り込んできた凶悪な暴漢に目の前で母親を惨殺され、
自分と妹も重傷を負わされるという悲惨な体験をしているのだ。
このショッキングな事件の後、耕司は変わってしまい、学校にも来なくなった。
高校生が学業をサボっての非行というのは決して褒められないことではあるものの、
それだけのことがあれば世を儚んで荒れてしまうのも仕方ないかも知れないと千秋は思う。
「で、どこへ行く気だったんだ?
まさかこんな廃墟を一人で探検ってわけじゃねえだろ」
「あっ、そうだった!
おじいちゃんに買い出し頼まれちゃってさ。急いでたのに!」
「乗れよ。送ってやる」
「ありがとう。助かるわ!」
ヘルメットを投げ渡し、バイクの後部座席に乗るよう促す耕司。
千秋は言われるままにヘルメットを被ってバイクに跨り、
荒っぽい運転と近所迷惑なエンジン音の煩さには冷や汗をかきつつも、
彼の好意に甘えて近くのスーパーマーケットまで送ってもらうことにした。
「そんなことがあったのか……。とにかく無事で良かったな」
「いざとなったらおじいちゃんや小鈴さんたちを呼ぶこともできたけど、
その前に耕司くんが来てくれて助かったわ」
翌朝。登校した千秋は、学校の教室でボーイフレンドの獅場俊一に昨夜のことを話した。
耕司は俊一や千秋と同じ2年B組のクラスメイトではあるのだが、
2年生への進級の際にクラス替えがあってから耕司は一度も登校していないため、
俊一と耕司の間にはまだ面識はない。
「あ、でも噂は聞いたことあるような気がするな。
黒津耕司。確か野球部にいいピッチャーが入ったって、
俺たちが入学した頃にちょっとした騒ぎになってたっけ。
もしかして、それがあいつなのか?」
「そうそう。中学までは地元の野球少年団のエースでね。
野茂英雄みたいなトルネード投法が得意技で、
十年に一度の天才球児なんて言われるくらい凄い投手だったのよ耕司くん。
でも野球も今は全然やってないみたいだし、勿体ないよね……」
所属している野球部でもすっかり幽霊部員になってしまっている耕司は、
俊一がレギウスに覚醒するきっかけとなった先日の小谷工業高校戦にもやはり出場していない。
部員が少なく、県内でもまだ弱小の江星高校野球部にとっては、
当初は救世主とも持てはやされた期待のルーキーだったのだが、
残念ながら彼の自慢の豪速球が高校野球の世界を沸かせることはなかったのである。
「あ、それとね。おじいちゃんたちから伝言なんだけど、
来週の日曜は忙しいから、悪いけどいつもの特訓は無しだって。
ちょっと遠出して、みんなで静岡の方の状況を探りに行くって言ってたわ」
「そうか。分かったよ」
千秋の祖父である甲賀忍軍の頭領・稲垣岳玄と対面し、
今後のサポートを得られることになった俊一だが、
それは決して俊一が甲賀に正式に入門したとか、
岳玄の部下のような立場になったということを意味するわけではない。
俊一にとってはありがたいことに、岳玄らはあくまで俊一の自由を尊重し、
俊一が困っている時には言ってくれれば喜んで助けると約束してくれただけである。
基本的に、俊一から進んで援助や導きを求めてこない限り、
甲賀衆の方から何か指図や口出しなどをしてくることはなく、
週末に武術を習いに稲垣家を訪れている以外は今まで通りの日常がそのまま続いていた。
「岐阜の洪水作戦が失敗してから、ゼルバベルも大人しい様子だよな。
まあ、まだほんの何週間かだけの話だから、何とも言えないけどさ」
「嵐の前の静けさだ、っておじいちゃんは言ってたわ。
何か大きなことが起こりそうな予兆が水面下で見られる、って……」
「確かに、そんな感じかもな」
西濃ダム爆破作戦を甲賀忍軍とライオンレギウスに阻止されてからというもの、
特に目立った動きもなく鳴りを潜めているゼルバベルだったが、
これがいつまでも続く真の平和などではないことは、
戦いの世界にはまだまだ疎い俊一や千秋にさえ容易に察せられることであった。
「いくら主力がいなかったとは言え、
あんな無様なボロ負けは二度と御免だ。気張って行くぞ!」
「オーッ!!」
放課後。
小谷工業高校との試合では無惨なコールド負けを喫してしまった江星高校野球部は、
インフルエンザで病欠していたレギュラーの上級生たちが戻り、
心機一転、気合を入れ直してフルメンバーでの練習を再開していた。
そこへぶらりと姿を見せた、前髪を茶色く染めた黒いスカジャン姿の青年……。
「おっ、黒津じゃねえか!」
「よう……」
部活にめっきり顔を出さなくなっていた耕司が唐突に現れたのを見て、
グラウンド上で練習に汗を流していた野球部員たちが彼の元へ集まってくる。
「急にどうしたんだよ。復帰希望なら、いつでも大歓迎だぞ?」
「そんなんじゃねえよ。
ただ、この前の試合でレギウスに襲われたと聞いて、少し気になってな」
「おいおい、意外と仲間思いなところあるじゃん?
確かに怪物が毒ガスを撒き散らして大変だったけど、みんな運良く大丈夫だったぜ」
「そうか……。だったらいい」
「久しぶりだろ。ちょっと投げて行かないか?」
「いや、やめておく。もう野球の腕は腐っちまったよ」
少人数でアットホームな雰囲気の野球部は、
幽霊部員の耕司を責めたりすることもなく温かく迎え入れようとするが、
耕司は口数が少なく不愛想である。
そんなぎこちない再会の輪が広がっていたグラウンドに、俊一と千秋が通りがかった。
「あっ、耕司くん! 学校来てたんだ!」
「…千秋か」
耕司の姿を見て嬉しそうに駆け寄った千秋は、
親しげに肩を叩いて彼の数ヶ月ぶりの登校を喜んだ。
「良かった~。昨日私が言ったこと、少しは考えてくれたのね」
「野球部の奴らにちょっと会いに来ただけだ。
授業なんか出る気もしねえ」
「もう、またそんなこと言って~」
面倒くさそうに千秋から視線を逸らした耕司は、
彼女の後ろに立っていた俊一と目が合った。
「あ、俊一。紹介するね。さっき言ってた黒津耕司くん。
私とは小学生の頃からの友達よ」
そう言って千秋に紹介された耕司は、
ガンを飛ばすかのような鋭い目つきで俊一を見据えた。
「お前か。千秋と付き合ってる男ってのは」
「あ…ああ。そうだ」
柄の悪い耕司の態度に思わず怯みそうになる俊一。
千秋の幼馴染ともなれば、彼女を取られたような気がして心証は良くないだろう。
だが男たるもの、ここで怖気づいて尻尾を巻くわけには行かない。
俊一は気合を入れて目力を込め、キッと睨むように耕司の顔を正面から見返した。
「あ…あの、二人とも仲良く…ね?」
一触即発の緊迫した空気に、千秋が蒼ざめつつ両者をなだめに入る。
喧嘩になってしまうかと焦った千秋だったが、
意外にも耕司は険しかった表情を突然緩め、冷めきったような目をして言った。
「ま、こいつをよろしく頼むわ」
俊一に向けてそう言い捨て、踵を返して立ち去ってゆく耕司。
殴られたりしないかと内心ヒヤヒヤしていた俊一がホッと小さく溜息をつくと、
不意に振り返った耕司は更に一言、おまけを付け加えるように言った。
「じゃじゃ馬娘で大変だろうけどな」
「お、おう。分かってる!」
「分かるなっ!」
明るい笑顔になってサムズアップで応えた俊一の頭を引っぱたく千秋。
険悪だった空気が一瞬で吹き飛んでいったその時、
彼らの背後で突如、稲妻のような眩しい光が迸った。
「な、何だ……!?」
それは、上空から飛んできたレーザービームであった。
黄色く輝くビームはグラウンドの端に置かれていたサッカーのゴールを直撃。
すると、ゴールはまるで無重力状態に陥ったかのように宙に浮かび上がったのである。
「危ないっ!」
浮遊したサッカーゴールは空中でバラバラに分解されて落下。
驚く俊一と千秋の上に、重い金属製のゴールポストが回転しながら降ってきた……!