第48話『神に造られし聖具獣(後編)』

 

バイアピオス大陸とトゥルジア大陸の中間に浮かぶヨシェル島は、

温暖な気候に恵まれた緑豊かな美しい島である。

だが……島の中央にそびえるゲバル山と麓の平野だけは、

不自然なまでに草木が生えない不毛の砂漠と化しているのだ。

 

「あれが、魔の山と呼ばれるゲバル山ね」

 

セレネナ貴族共和制連邦の使者としてヨシェル士師国との外交交渉を終えたシュティルナは、

聖都イスカリエルを離れ、帰国の前にこの謎めいた山の麓へと足を運んでみた。

陽気で長閑な南国の景色が広がるヨシェル島の中で、

その中心に鎮座する黒ずんだゲバル山の不気味さはやはり異様である。

 

「船を造るために木を切り尽くしたから……というわけではなさそうね」

 

宗主国であるジェプティム王国の命令で軍船を建造するため、

ヨシェル国内の樹木は次々と伐採されており、

中には見るも無残な禿山になってしまった山もある。

しかし、この場所に緑がないのは人間の自然破壊の結果というわけではなかった。

 

「ここは、昔からこんな不毛の砂漠よ。

 気候はいいし、降水量だってこの島の他の場所と変わらない。

 でもなぜか植物はほとんど生えないし、動物も棲むことができない。

 トゥルジア大陸の砂漠で過酷な環境に耐えて生息している蛇やサソリでさえ、

 この呪われた土地では生きて行けないわ」

 

シュティルナの肩に乗っているソロンが、

風に乗って吹きつける砂塵を嫌うように目を細めながらそう語る。

この機械仕掛けの青いペガサスが魔法によって命を持つようになったのは遥か昔、

今から千年も前のことである。

そのソロンが知る限り、ここが緑に覆われていたことは過去千年の間に一度もないのだった。

 

「ここは禁断の地と呼ばれていましてね。

 何人たりとも足を踏み入れてはならぬと、我らの神ウェスパの仰せです」

 

後を追って来たヨシェルの騎士ギデオンが、背中からシュティルナに声をかけた。

臆しも悪びれもせず、シュティルナは微笑を浮かべながらゆっくりと振り向く。

 

「例えセレネナからのご使者と言えども、この先へはお通しできませぬ。

 禁忌を犯せば神がお怒りになり、どんな恐ろしい災厄が起こるか分かりませぬゆえ」

 

「ご心配なく。どんな所か、ちょっと見てみたかっただけです。

 想像以上に薄気味悪くて、これより先へ進むのはこちらからご遠慮願いたいわね」

 

「神が眠る聖なる山、と伝えられてはいるのですが……。

 慈愛に満ちた輝かしい神の御座所にしては不気味な場所だと、

 戸惑ってしまうウェスパ教徒も少なくありませぬ。

 それがしも、ここに来るといつも身震いするような畏怖の念を覚えます」

 

聖典によれば、神ウェスパは己を崇める人間たちを深く愛する慈父のような存在であると同時に、

逆らう者には恐ろしい天罰を下す強力な絶対君主でもあるという。

荒漠としたゲバル山の威圧的な姿は、そんな神の底知れぬ威厳を示しているかのようでもあった。

 

「大変です! ギデオン様! 一大事にございます!」

 

その時、ギデオンの部下の騎士が大慌てで馬を駆けさせてきて、

蒼ざめた顔で地面に跪きながら報告した。

 

「どうした。何事だ?」

 

「すぐにお戻り下さいませ。イスカリエルの宮殿で反乱が起こっております。

 アブシャロム将軍が士師様とキャンヴェリオン公爵を捕らえ、

 武力で政権を奪取した由にございます!」

 

「何だと……!?」


「ここは……?」

 

アルミラージレギウスの睡眠ガスを吸って眠りに落ちてしまったリーネは、

気がつくと手足を縄で縛られた状態で、宮殿の塔の中にある石造りの牢屋に閉じ込められていた。

 

 「目が覚めましたか? リーネさん……」

 

「エルウェイ……?」

 

この国を治める士師であるはずのエルウェイも、

同じように縄で縛られてリーネと一緒の牢に入れられている。

檻の外では、人相の悪い大柄の男が楽しげにこちらを眺めていた。

 

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「あなたは……確かエルウェイの家臣のアブシャロム将軍だったかしら?」

 

「その通り。覚えていただけていて光栄だ。リーネ・キャンヴェリオン公爵」

 

やはり反乱が起きていたのか。

ヨシェル軍の兵士に襲われた先程の事態の合点が行ったリーネは、

縄で縛られて身動きできない状態のままアブシャロムを睨みつける。

 

「てっきり頼りになる忠臣かと思ってたら、とんだ見込み違いだったようね。

 その声、さっきのアルミラージみたいな怪物の正体もあなたでしょう。

 超人的な力を手に入れて、自分にも国盗りができると調子に乗ったのかしら?」

 

「私利私欲のための謀反などではない。

 国と民族の行く末を憂いて、悩み抜いた果ての決起だよ。

 いつまでもケツの青い坊やを主君と仰いでいたのでは我がヨシェルは立ちゆかぬ!

 かくなる上は無能な士師を廃位してこのわしが国政を代行し、

 ジェプティムの圧政者どもを倒すための武装蜂起の指揮を執る」

 

「申し訳ありません。リーネさん。

 全て僕の不徳が招いたことです……」

 

信頼していた重臣のアブシャロムに裏切られたエルウェイは涙ぐみながらリーネに謝った。

何か慰める言葉をかけようとしたリーネだったが、

それよりも目の前の敵とのやり取りの方が今は先決である。

 

「エルウェイだけでなく私まで縛り上げて、どうするつもり?」

 

「知れたこと。貴公の身柄はセレネナとの交渉の手札として利用させていただく。

 ジェプティムとの戦争に勝つため、我らは貴国の力を必要としているのだ。

 セレネナが寄越した使者は援軍要請には釣れない態度だったが、

 こちらが貴国の重鎮たる有力貴族の一人を預かっているとなれば、

 ヘルメシュタの連邦議会も派兵の意見に少なからず傾くのではないかと思ってな」

 

「人質ってわけね。ふざけたことをしてくれるわ」

 

つまり、リーネの身柄の解放と交換条件で、

ヨシェルの民族反乱を支援するようセレネナに要求するわけである。

アブシャロムの意図を聞かされたリーネは、嘲るようにフンと小さく鼻を鳴らした。

 

「武勇は抜群でも政略や外交には疎いわね。軍人さん。

 私の命が惜しくて不当な要求に屈してくれるほど、

 セレネナの貴族諸侯は仲間思いの優しい人たちかしら。

 むしろ鬱陶しい政敵を始末してくれて良かったなんて感想が、

 あの国使のシュティルナ辺りからは聞こえてきそうなものだけど」

 

「ならば、こういうのはどうかな?

 拷問、あるいは催眠魔法を使って自白させ、

 セレネナの大事な国家機密を貴公の口から聞き出すのだ。

 今すぐそうするのは待ってやるが、再度の派兵要請への返答次第では、

 残酷な拷問吏と強力な魔術師をここに呼ばせてもらうことにする。

 ひと思いに殺してしまうよりも、ずっと上手い方法だと思わんかね」

 

「くっ! 拷問だけなら、どこまででも耐えてみせるけど……」

 

「……いい加減にしてくれ。アブシャロム将軍」

 

リーネが臍を噛んで顔をしかめたその時、

それまで黙って悲嘆に沈んでいるだけだったエルウェイが、

初めて語気を強めて声を発した。

 

「自分がとんでもないことをしているのが分からないのか。

 僕だけでなくリーネさんやセレネナの国まで巻き込んで、

 勝ち目のない戦を起こしてヨシェルを破滅に導こうとしてる。

 こんな愚かで身勝手な行ないに、神がお怒りにならないわけがないじゃないか!」

 

「神の御心がどうであるかはすぐに分かる。

 今宵、メシャイの祭りで神は全てを啓示されるだろう。

 祭りの準備が整うまで、ここで大人しく待っているがいい」

 

叩きつけるようにそう言って、アブシャロムは牢獄の塔から出ていった。

今日は年に一度の祭りの日。

本来ならば、神に感謝を捧げる喜びとなるはずの特別な日である。


メシャイの祭りとは、およそ200年前、

当時トゥルジア大陸で隆盛を誇っていたザカリア帝国の大軍がヨシェル島へ攻めてきた際、

神ウェスパが嵐を起こしてザカリア軍の船を沈め、

侵略者からヨシェルを守ったという「神風の奇跡」を記念する感謝祭である。

本来、この祭りを執り行うのは神に選ばれた士師の役目のはずだが、

アブシャロムは祭司たちに自ら指示し、宮殿の外の広場に祭壇を築いて祭りを準備させていた。

 

「血迷ったかアブシャロム将軍! 神に選ばれた士師に狼藉を働くなど、

 主君への不忠のみならず神に対する反逆でもある。

 今すぐエルウェイ様とキャンヴェリオン卿を解放しろ!」

 

「控えよギデオン! 今は聖なる祭りの最中。

 これを邪魔立てすることこそ神をも畏れぬ不敬であろう。

 聖なる神事を暴力で踏みにじるような真似をすれば天に代わって成敗するぞ!」

 

夕刻、変事を聞きつけて急ぎイスカリエルの宮殿へ戻ってきたギデオンだったが、

広場では既に祭りが始まっており、祭司たちが祭壇の前で神に祈りを捧げていた。

いかにアブシャロムが謀反人とはいえ、

この神聖な儀式に強引に乱入して主催者である彼を斬ろうとすれば、

それは神への冒涜であり、ギデオンに神罰が下りかねないばかりか、

敬虔な信徒である大勢の参列者たち全てを敵に回してしまうことだろう。

 

「この状況では、こちらから騒ぎを起こしても不利になるだけだわ。

 ひとまず様子を窺いながら時が来るのを待ちましょう」

 

「しかしハールシェン卿、このままではエルウェイ様が……」

 

「大丈夫。キャンヴェリオン卿が一緒なら、

 そう簡単に命を奪われたりはしないわ」

 

あくまで冷静なシュティルナの助言に従い、

ギデオンはやむなくここでの戦闘行為を諦めて一旦引き下がった。

黄金と宝石で煌びやかに飾られた祭壇の上には、

輝く水晶玉を尻尾の先端につけた水色のセイレーンの像が置かれている。

 

「あの子……」

 

シュティルナの肩に乗っているソロンが、

祭壇の上に祀られている神の化身とされる像を遠くから見つめて呟いた。

 

「もしかして、あのセイレーンはあなたと同じ存在なのかしら? ソロン」

 

「ええ。あの子はただの神像なんかじゃない。

 名前はイヴといって、私と同じ、魔法によって命と心を持つようになったカラクリ人形よ」

 

「なるほどね。ソロンが私を選んだように、

 あのイヴもエルウェイという子を選んだ……」

 

ヨシェルでは、イヴが選んだ人物が国の指導者である士師になるのが古代からの伝統である。

イヴはソロンやエギルのように自分の考えだけで相棒を選んでいるわけではなく、

至高の神ウェスパの声に従って相応しい聖者を士師に登極させているということなのだが、

そのウェスパという神自体がソロンにはよく理解できない。

 

「昔から、何を考えてるのかよく分からない子で苦手だわ。

 自分が選んだはずの士師がこんなことになってしまって、

 果たしてこの状況を黙認するつもりなのかどうか……」

 

ソロンやエギルと同じく意思があるはずのイヴは、

まるで命を持たないただの彫刻像のように微動だにせず祭りの進行を見守っている。

その真意を測ろうとするように、ソロンは背中の翼を動かしながら小さく首をかしげた。


「信じていたアブシャロムに裏切られるなんて……。

 僕があまりに不甲斐ないから……やっぱり僕は、士師失格だ……」

 

「泣かないの。下剋上っていうのは古今東西どこの国にもあるものよ。

 例え偉大な名君だろうと、家臣に背かれた例はいくらでもあるわ」

 

牢の中。悲しみから立ち直れずにまだ涙を流し続けているエルウェイに、

リーネは殊更に明るい声で励ますように言った。

 

「私だって3年前、15歳の時に父上が病で亡くなって、

 跡を継いでフリュージアの国主にならなきゃいけなくなったときは大変だったわ。

 自慢じゃないけど、うちはセレネナでも特に有力な公爵家だからね。

 こんな小娘じゃ父上の代わりなんて無理だって侮られたり、

 逆に騙しやすいと思われて甘い言葉で利用されそうになったり、色々あったものよ」

 

「リーネさんでも……?

 その大変な時期を、どうやって乗り越えたんですか?」

 

「負けないぞ、っていう強い気持ち一つかな。

 武芸の腕を必死に鍛えたり、政治や経済のことを熱心に勉強したり、

 とにかく自分の実力を少しでも高めるために頑張った。

 そうしてる内に、最初は私を軽く見ていた周囲の人たちも、

 少しずつ認めてくれるようになったわ。

 今でも全員がそうってわけじゃないけど、それは別に構わない。

 誰が何と言おうと、自信を持って我が道を往くのみ。

 そういう逞しい生き方をしていれば、心ある人は自然とついて来てくれるものよ」

 

「自信……」

 

「その点、あなたはちょっと人が良すぎって言うか、

 押しが弱いなっていう感じはするかな。

 相手のことをよく考えて気遣おうとするからよね。

 それは一個人としては素敵な人格だけど、人の上に立つのなら、

 あまり自信のない態度で命令されても部下も信じてついては来れないし、

 例え演技でもいいからもっと強そうに振る舞うべきよ」

 

「僕は田舎の小さな村の羊飼いの子で、

 偉そうに人に命令するような立場なんかじゃなかった。

 それが2年前、10歳になってすぐに、急にイヴの神託が下りて士師になれって言われて……。

 正直、どうして僕がこんな重大な役目に選ばれたのか全然分からないんです。

 神様が選んだんだから間違った人選だなんてことはあり得ない、

 だから大丈夫だって家臣たちは言ってくれるけど、

 でも今回こんなことになってしまって、もう……」

 

「私はヨシェル人じゃないから、

 ウェスパっていうこの国の守り神のことはよく分からないけど、

 あなたは賢いし、それだけ責任を感じられるくらい皆を思いやる優しさがあるし、

 きっといい士師になれるんじゃないかと思うけどね。

 昔の私と同じで、あなたに必要なのは学んで経験を積んで成長する時間だけ。

 今のヨシェルは大変で、状況が切迫してるのは確かだけど、

 だからと言って焦らないことよ」

 

牢の外から足音が聞こえてきたので、リーネとエルウェイは会話を中断して顔を上げた。

やって来たのはアブシャロムである。

 

「残念だが、その少年に時間はもう与えられんぞ。

 人質としての利用価値がある貴公とは違って、

 辞任していただいた役立たずの元士師は生かしておく意味が特にない。

 神を喜ばせるための生贄となってもらう以外には、な」

 

「生贄……!? まさか僕をメシャイの祭りで……」

 

蒼ざめるエルウェイを嘲笑うように、アブシャロムはゆっくりと首肯した。

メシャイの祭りでは神への感謝の印として、

子羊が焼かれて捧げ物にされるのが習わしである。

アブシャロムは羊の代わりに、何とエルウェイを神前で焼き殺すつもりなのだ。

 

「動物ならまだしも、人間の生贄なんて随分と野蛮ね。

 そんな残忍な儀式、素人目にもウェスパ教の教えには反するような気がするけど?」

 

「何とでも言うがいい。神の御名の下に、

 かつての主君を衆人の見守る中、まるで舞台の見世物の如く葬り去る。

 わしがヨシェルの新たな支配者となったことを、

 これほど分かりやすく人々に示す演出も他にあるまい。

 貴公にもその様子は間近で観覧させてやろう。さあ連れて行け!」

 

配下の兵士に命じて、アブシャロムはエルウェイとリーネを牢から出し、

外に築かれた祭壇の前へと連行した。


「ヨシェルを守護し給う我らの神に、生贄を捧げる時が来た。

 今年の捧げ物は格別だぞ。神もきっとお喜びになろう」

 

「アブシャロムめ、まさかエルウェイ様を生贄に……!?」

 

祭りの席を一旦外していたアブシャロムが、

縛られたエルウェイとリーネを連れて祭壇の前へ戻ってきたのでギデオンは絶句した。

激昂し剣を抜いて飛び出して行こうとする彼だったが、シュティルナが制止する。

 

「士師という形骸化した国主に、神ウェスパのご加護はもはやない。

 かくなる上は神に見放された哀れな士師を聖火の中に投じ、生贄に捧げることとする。

 神よ、無能な支配者に別れを告げ、新たな時代へ踏み出さんとする我らに祝福を!」

 

篝火が勢いよく燃え、アブシャロムは縄尻を掴んでエルウェイをその前へと引っ張り出した。

 

「や、やめろアブシャロム! やめてくれ!」

 

「うるさい! 士師ならば神への忠誠だけでも立派に示し、

 ありがたく殉教の死を受け入れるのだ!」

 

力強く縄を引っ張られ、炎の中にエルウェイが倒れ込みそうになったまさにその時……。

祭壇の上にじっと鎮座していたイヴの目が突如、青い光を放った。

 

「ぬっ……!? ぐわぁぁぁっ!!」

 

イヴの両眼から放たれた青色のビームは篝火に命中し、

燃え上がる炎は意志を持ったように渦を巻いてアブシャロムに襲いかかった。

猛火を浴びて全身が炎上し、アブシャロムは火達磨となってのた打ち回る。

 

「これは……?」

 

「神の怒りだ。ウェスパ神はアブシャロムをお認めにはならなかったのだ!」

 

思わぬ事態に驚いて唖然とするシュティルナの隣で、

ギデオンは確信を込めた声でそう言った。

 

「皆の衆、見たか! アブシャロムに神の祝福などはない!

 士師を廃して武力で実権を奪おうという傲慢極まる横暴を、

 神はお許しにはならなかったのだ!」

 

ギデオンは参列者たちに向かって大声でそう叫んだ。

神が味方だと謳っている手前、アブシャロムに黙って従うしかなかった廷臣や将兵たちが、

ギデオンに呼応するように立ち上がって喚声を発し、騒ぎ出す。

 

「ギデオン、神様は僕を……」

 

「ご安心下され。神に懸けて、この剣でエルウェイ様をお守り申し上げます!」

 

戸惑うエルウェイの元へ駆け寄ったギデオンは素早く縄を解き、

長剣を構えて主君を守るように立ちはだかった。

 

「お……おのれ……! だがわしは負けんぞ!

 こんなはずはない。このレギウスの力に目覚めたことこそが、

 神がわしを選ばれた何よりの証拠なのだ!」

 

全身を包んだ炎を吹き飛ばし、アブシャロムはアルミラージレギウスに変身した。

今にもアブシャロムを袋叩きにしかねない勢いで騒いでいた群衆もこれには驚き、

悲鳴を上げてパニックを起こす。

 

「リーネお姉ちゃん! 大丈夫!?」

 

「エギル! 遅いわよ!」

 

祭事の場が大混乱に陥る中、夜空の闇を突っ切るように高速で飛んできたのは、

リーネの相棒である赤いファフニールのエギルだった。

リーネを縛っていた縄を尻尾の斧で切り落とし、

主人を束縛から解放したエギルは申し訳なさそうに下目遣いを見せる。

 

「ごめんお姉ちゃん。森の中をあっちこっち探検してたんだけど、

 まさかこんなことになってるなんて思わなくてさ」

 

「もう、しょうがない子ね~。

 とにかく反撃するわよ! 変形して!」

 

「了解っ!!」

 

リーネが命じると、エギルの体は赤い光に包まれ、

魔法の力でまるでロボットのように変形した。

太く丸みを帯びた胴体が手足を収納して細長く伸び、全体が棒状になって、

尻尾の先端についた刃を凶器とする大きな一本の戦斧と化したのである。

 

「ま、まさか! その赤い竜は伝説の……?」

 

「その通り。大昔、魔術師アビメレクが造ったという退魔の武器。

 あなたのような邪悪なレギウスを倒すために生まれてきた聖具獣の一つよ」

 

リーネの斧となったエギルを見てアルミラージレギウスは慄いた。

聖具獣。およそ千年前、世界中に跋扈するレギウスを退治するために鍛造されたと伝わる、

幻獣の姿をした強力な魔道具。

それこそがエギルの正体なのである。

 

「おのれ! もう一度眠らせてやる!」

 

「そうは行かないわ!」

 

アルミラージレギウスは口から緑色の睡眠ガスを吐いてリーネを攻撃したが、

聖斧エギルアックスに変形したエギルの刃から放たれた赤い魔力の壁はバリアとなり、

煙を遮ってリーネには届かせない。

リーネがエギルアックスをひと振りするとバリアは無数の光の粒になって弾け飛び、

煙と混じり合って蒸発させ対消滅した。

 

「たぁっ!!」

 

リーネは斧を振り下ろし、アルミラージレギウスの右肩に思い切り叩きつけた。

エギルアックスの刃から魔力が迸り、レギウスの硬い装甲を破壊する。

 

「ぐおおっ! き、貴様っ……!

 だがこの程度では……ぐぁっ!?」

 

強烈な一撃を受けてもなお抵抗しようとするアルミラージレギウスだったが、

その時、背後から青白い光の弾丸を撃ち込まれて背中の装甲が火花を散らした。

 

「レギウスの力で世界に争乱を起こそうとする悪徒たち……。

 それを退治するのが、ソロンたち聖具獣と、

 それに選ばれた私たち勇者の使命よ」

 

エギルと同じ聖具獣であるソロンが魔法の力で変形した、

聖銃ソロンライフルを構えたシュティルナがアルミラージレギウスを射撃する。

二つの聖具の攻撃を受け、大ダメージを負ったアルミラージレギウスは変身が解けて地面に膝を突いた。

 

「逆臣アブシャロム、天誅!」

 

すかさず長剣を振りかざして突進したギデオンが、

人間の姿に戻ったアブシャロムの胸を鋭く逆袈裟に斬り上げた。

ヨシェル随一の剣士の怒りを込めた斬撃を受けて、

アブシャロムは血飛沫を上げて倒れ、遂に討ち果たされたのであった。


「セレネナの皆様には、大変なご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。

 やはり僕は、一国を治める士師としてあまりに未熟です……」

 

聖都イスカリエルを震撼させたアブシャロムの乱が鎮圧された翌朝、

帰国の途につくリーネとシュティルナを見送りに出たエルウェイは、

改めて今回の騒動を招いた自分の至らなさを謝罪した。

 

「気にすることはないわ。所詮、政治や権力の世界なんてのは喰うか喰われるか。

 例えこの先、あなたがどんなに立派に成長したとしても、

 昨日の友が今日の敵になるのはよくあることよ。つらいけどね」

 

昨日の友が今日の敵になるのはよくあること――

アブシャロムの件について言及したつもりのリーネの科白は、

そのまま遠くない未来のエルウェイと彼女らとの関係にも当てはまり得るものだった。

ヨシェルは目下、宗主国であるジェプティムのファラオの命令で、

リーネたちのバイアピオス大陸を征服するための戦争を準備中なのだ。

口に出してからそのことに気づいて、リーネは少し後悔したように視線を逸らす。

 

「この国の情勢については、ヘルメシュタの連邦議会にしっかりと報告させていただきます。

 そこでどんな答が出るか、私たちから何かを確約はできないけれど、

 ウェスパという神があなたを認めておられることはこれでよく分かったのではないかしら。

 神のご加護があれば、きっと良い運命が待っていることでしょう」

 

シュティルナはそう言ってエルウェイを励ました。

不穏な戦雲はこのアレスティナ界を覆いつつあり、明るい気配は先方に見えない。

迫りくる難局をどう切り抜けていくかはリーネやシュティルナにとっても、

エルウェイや他の者たちにとってもまだ全く手探りの状態だが、

とにかく希望を信じる前向きな心だけは常に忘れてはならないだろう。

 

「多分、次に会う時は戦場かしらね。

 敵になるか味方になるかは神のみぞ知る、ってところだけど、

 どちらにしてもお互い武運を祈り合いたいものよね。頑張りましょう!」

 

「ありがとうございました。リーネさんたちもお達者で!」

 

こうしてリーネとシュティルナはヨシェルを去り、母国セレネナへ帰っていった。

エルウェイと剣を交えることになる運命を避けたいという願いと、

いずれにせよ不可避であろう、かつてない戦争の予感を胸に抱きながら――。


「セレネナからの使者は、無事帰国した由にございます」

 

騒乱が収まり、静けさが戻ったイスカリエルの宮殿。

その本殿にある礼拝堂の中で、聖具獣イヴの前に跪いた紫色のフードの男が事の次第を報告している。

 

「この事態にセレネナがどんな反応を見せるかはまだ分からない。

 でも全ては確実に、主なる神ウェスパが喜ばれる方向に動いているわ。

 アレスティナの歴史は、既に過去には前例のない新たな時代へと進みつつある……」

 

愉しげに笑うかのような無邪気な女の子の声が、イヴの口から響いた。

 

「本当によろしかったのですか?

 あのままアブシャロムを国主に立ててセレネナを巻き込み、

 ジェプティムと戦うよう導くという手もあったかと存じますが」

 

「あの男は民族の将来を案じる余り、事を焦りすぎたわ。

 エルウェイ・リアンという少年には、士師として果たすべき役目がまだ数多く残されている。

 それが神ウェスパの崇高なるお考えよ」

 

神を代弁し、アブシャロムに炎の天罰を下してエルウェイを救ったイヴは、

冷ややかな口調でその隠された真意を語った。

 

「セレネナの参戦だけでは、神のご意思に叶う規模の流血にはなり得ないわ。

 アシュタミルやディアグル、ジェプティムの傘下にある幾多の属国、

 それに時空の彼方からやって来た地球人たちまでも巻き込んで初めて、

 神が望んでおられる究極の世界最終戦争(ハルマゲドン)は実現する……。

 そのための下ごしらえを、あの健気な少年にはもうしばらく頑張ってもらいましょう。ウフフ♪」

 

悪戯っぽく笑ったイヴが口にした、ハルマゲドンという恐ろしい言葉。

ウェスパ教の聖典に予言された、全世界を焼き尽くす終末の日の大戦争は、

もう間もなく始まろうとしていたのである。