第17話『千客万来、上総堂!』

 

空が赤らみ始めた夕刻。
朝食を済ませてすぐにランニングに出かけた俊一の帰りが遅いので、
心配になった妹の楓花は様子を見に河川敷へ向かったのだが、
そこには警察やブレイバーフォースの車両が何台も止まっており、
制服姿の警官や防衛隊員たちが忙しなく駆け回っていて物々しい空気となっていた。

 

「い…一体何があったんですか?」

 

「実況見分中です。ここから先は立ち入らないで下さい!」

 

警官の説明によると、ゼルバベルのレギウスがここに出現して暴れたため、
ブレイバーフォースが出動して交戦、撃滅したのだという。
戦いの痕跡か、川岸の芝生の一部には黒く焼け焦げた跡がある。

 

「あの、ここで赤いシャツを着た高校生の男の人を見ませんでしたか?
 私の兄が、この近くにいたかも知れないんです!」

 

「高校生? いや、見てないな。
 最初に襲われた男性会社員の他には、
 戦闘に巻き込まれた一般市民は誰もいなかったはずだぞ」

 

「そうですか…」

 

その場にいたブレイバーフォースの進藤蓮隊員に勇気を出して訊ねてみた楓花だったが、
素っ気ない態度で知らないと言われてしまう。

 

「お兄ちゃん、どこ行ったのかな…」

 

仕方なく現場を離れ、河川敷を下流の方へと歩いてみる楓花。
気持ちばかりが急いて、無意識のうちに早足でかなりの距離を進んでいた。
やがて1キロメートルほど向こうの川の浅瀬で、
河水に漬かったままうつ伏せに倒れている俊一の姿を発見する。

 

「お兄ちゃん! お兄ちゃん大丈夫!? しっかりして!」

 

「ううっ…」

 

急いで駆け寄り、俊一の上体を起こして揺さぶると、
俊一は口から水を吐き、よろめきながら何とか立って自力で川から上がった。
ポケットから取り出したハンカチで、水に濡れた兄の顔を拭く楓花。
芝生に座り込んだ俊一はかなり体力を失っているようで、呼吸が荒い。

 

「まさか、レギウスに襲われたの?
 さっきこの近くでブレイバーフォースがレギウスと戦ったって…」

 

「レギウス…? ああ…。あ、いや、違う…」

 

「とにかく、向こうに警察やブレイバーフォースの人たちがいるから、助けを呼んでくるね」

 

「ダメだ! それはやめてくれ」

 

思わず楓花も驚くくらいの強い声で、助けを呼ぶのを止める俊一。

 

「ごめん、何でもないんだ…。ちょっと川に落ちちゃっただけさ…。
 父さんと母さんは家にいるのか?」

 

「今はいないわ。お仕事が一区切りついたから、
 久しぶりに二人でコーヒー飲みに行こうかって喫茶店に…」

 

帰国してすぐのデスクワークで疲れた修二郎と曜子は息抜きをしようと、
近所にある行きつけの喫茶店を久々に訪れることにしたのだった。
両親が留守だと聞いて、やや安堵の表情を浮かべる俊一。

 

「良かった…。なあ、頼む楓花。
 父さんと母さんには、このことは内緒にしておいてくれ」

 

「えっ、どうして?
 って言うか本当に何があったの?」

 

「早く帰ろう…。風が冷たくなってきたな。寒いや」

 

「お兄ちゃん…」

 

俊一の態度の意味が分からず困惑する楓花だったが、
とにかくこのまま外にいたのでは風邪を引いてしまう。
ひとまずうなずいて誰にも口外しないことを承諾し、
ずぶ濡れで疲れ切っている兄の手を引いて急ぎ家へと連れ帰ったのであった。


俊一のガールフレンド・稲垣千秋の住む家は、
元は武家屋敷だった古い建物を一部現代風に改装した、
広い敷地を持つ立派な和風住宅である。
元々、稲垣家の先祖はこの屋敷を住居にしていた武士の家柄らしいのだが、
そうした一族の由緒については、なぜか彼らは多くを語ろうとはしない…。

 

「えっ、ブレイバーフォースに攻撃された…?」

 

休日の午後を特に何もすることなく家で過ごし、
退屈していた千秋は俊一と話をしようと彼のスマートフォンに電話をしてみたのだが、
珍しいことに俊一はすぐに電話に出ることができなかった。
ようやく折り返しの電話が俊一からかかって来たのは、日が暮れてからのことである。

 

「ああ。この前一緒に戦った鳥みたいなレギウスの仲間が、
 いきなり襲いかかって来たんだ。
 何が何だか分からなくて戸惑ってる間に、ボコボコにやられちゃったよ…」

 

「…大丈夫なの? ケガとかしてない?」

 

「体はどこも何ともないんだ。心配しないでくれ。
 ただ、ちょっとショックが大きいな…。
 レギウスになってから負けたの初めてだし、
 しかも相手が地球防衛軍ってのは、事情はよく分からないけど相当厄介な状況だと思うし」

 

「そうね…。やっぱりレギウスってことで、
 平和を守るブレイバーフォースからも警戒されちゃうのかも知れないわね。
 ゼルバベルもまたテロ予告してるみたいだし、これからどうなるのかな…」

 

相次ぐレギウスによる凶悪事件、そしてゼルバベルという新たな敵の出現で、

世の中はにわかに騒然となり、人々はレギウスの脅威に怯えるようになってきている。

俊一にレギウスの力を悪用しようという意志などは露ほどもないものの、

人外の超パワーを持っているというだけで、社会から排撃されてしまうのは不可避かも知れない。

 

「(こうなると、おじいちゃんたちに相談してみるのも手かな…?)」

 

一緒に住んでいる祖父になら、この秘密を打ち明ければ力になってくれるだろうか。
そんなことを考えてみる千秋だったが、
まだ衝撃から立ち直れていない様子の俊一に今すぐそれを提案することは避け、
まずは気遣いの言葉だけをかけて会話を終わらせた。

 

「取りあえず、風邪とか引かないように気をつけてね。それじゃ」

 

そう言って電話を切り、スマートフォンを置いた千秋。
今日、休日なのに俊一とのデートの予定を入れていなかったのは、
この後アルバイトに行かなければいけないからである。
そろそろシャワーを浴びて出かける支度をしようと、ドアを開けて部屋を出たその時――

 

漫画:トコトコトーコ

 

ドアの上にメロンソーダの罠を仕掛けていたのは、
千秋の弟で小学4年生の稲垣健斗。
7歳年上の姉には事あるごとにこうしたイタズラをして困らせている、
ヤンチャ盛りの腕白小僧である。

 

「健斗ぉっ! あんたいい加減にしなさいよっ!
 炭酸シャンプーが美容にいいからって、
 こんなベタベタする飲み物で髪を洗う人がいるわけないじゃない!」

 

「もうバイト行くんでしょ? どうせすぐシャワー浴びるんだからいいじゃん」

 

「そういう問題じゃないでしょぉっ!」

 

「…それに、姉ちゃん最近何か悩んでるみたいだったからさ。

 ちょっと元気出してほしいと思って。大丈夫?」

 

「えっ…」

 

健斗の指摘に、思わずハッとする千秋。
悪さばかりしでかすどうしようもない弟のように見えて、
時々こうして姉の気持ちを鋭く見抜いたりもするから侮れない。

 

「な…何でもないわよ。別に」

 

「もしかして、彼氏にフラれたとか?」

 

「そんなんじゃないっ!」

 

「へへ~ん、本当かな? ま、元気そうで良かった!」

 

「あっ、待ちなさい! こらっ!」

 

笑いながら階段の手すりを身軽に滑り降り、

運動靴を足に引っかけて玄関から外へと走り去ってしまう健斗。
ソーダの炭酸が弾けて髪の毛と頭皮がシュワシュワと刺激される嫌な感覚に悶えつつ、
千秋は呆れたように溜息をつく。

 

「もうっ! 相変わらずイタズラっ子なんだから!
 あ~もう何よこれ気持ち悪~い!」

 

濡れた頭を抱えて風呂場に駆け込んだ千秋は、
すぐにシャワーを浴びて髪を洗い、アルバイトに出勤するためとにかく支度を急ぐのであった。


「へい、きつねそば一丁!」

 

稲垣家の家業は、そば屋である。
自宅のすぐ裏に店を構える老舗のそば食堂「上総堂(かずさどう)」では、
千秋の祖父で店主の稲垣岳玄が作る手打ちそばが客たちの人気を博していた。

 

「いや~旦那、いつもながらコシがあっていいそばだねえ!」

 

「ツユも濃くってとっても美味しいです~」

 

「左様ですか。ありがとうございます!」

 

そば作りにかけては頑固一徹、こだわりのそば職人である岳玄が、
長年の修業と研究を重ねた末に生み出した上質のそばが好評で、
なかなかに商売繁盛している上総堂。
夕食の時間帯が近づくと共に客の数が徐々に増え、賑やかになっている。

 

「ところで旦那、ここの上総堂っていう店名だけど、
 上総ってことは旦那はもしかして俺と同じ千葉の出身なのかい?」

 

「あ、いやいや、よく訊かれるのですがね。
 上総というのは千葉県にちなんだわけではなく、
 私が心から尊敬する偉人・織田上総介信長様のお名前から取らせていただいたんです。
 私は生粋の滋賀人で、千葉の方には残念ながらご縁がないですね」

 

「なるほど、上総介信長の上総か~。
 そう考えれば、安土でやっているこのお店にはぴったりの名前だね」

 

上総というのは房総半島中部の旧国名なので誤解を招きがちだが、
稲垣家は先祖代々ずっと安土に住んできた武士の家系で、
最近この街に急速に増えている関東からの移住者ではない。
そばも昔ながらの関西風で、地元の滋賀県民の舌にも馴染みやすい味である。

 

「師匠、ネギ刻み終わりました!」

 

「油揚げもできてます!」

 

厨房で忙しなく働いている二人の若い男女は、どちらも日本人ではない。
タイ国籍のチャンウィット・タンクランと、中国出身の尹小鈴(イン・シャオリン)。
二人ともシェフ見習いで、将来の夢は母国に帰って自分の店を開くこと。
夢が叶った暁には伝統的な和食のそばを店で出せるようになりたいと考え、
岳玄に弟子入りして稲垣流のそば打ちを修業中なのである。

 

「…よし、合格だな。
 これならお客様に出しても大丈夫だろう」

 

「良かった…。ありがとうございます!」

 

揚げ物料理の腕がようやく上達してきた小鈴は、
作った油揚げの出来を岳玄にひとまず認められて安堵する。
二人ともまだ客に出せるようなそばを打てる段階にはないが、

今は具作りや皿洗いなどの手伝いをこなしつつ、
岳玄の厳しくも細やかな指導を受けながら日々成長中なのである。

 

「おじいちゃん、遅くなってごめん!
 また健斗にイタズラされちゃってさ~」

 

夜6時を過ぎた時刻。
少しずつ混み合ってきた店内に大慌てで駆け込んできた千秋は、
まだ炭酸飲料の痺れた感覚が残る頭を片手でさすりながらエプロンを着けた。

 

「おお千秋。それは災難だったの。
 健斗の奴も相変わらずのヤンチャ坊主で困ったものだ」

 

「おじいちゃんからもちゃんと躾しといてよね。
 あの性格でトラップの作り方なんて変なこと教えるから、
 最近は上から毛虫が落ちて来るわタライが降って来るわで大変なんだから」

 

「ハハハ、分かった分かった。
 ほら、あちらのお客様がもうすぐ上がられるようだから、
 レジで待機しておいてくれんか」

 

「うん、分かりました!」

 

客の注文を取ったり会計のレジを打ったりという店の仕事に早速取りかかる千秋。
家業の手伝いとお小遣い稼ぎのため、
千秋は祖父が経営するこのそば屋で時々アルバイトをしており、
あくまでピンチヒッター的な立場で常駐の店員ではないものの、
明るい笑顔が人気の看板娘となっているのである。

 

「ありがとうございました! またお越し下さいませ~!」

 

この日も目標額の売り上げを何とか達成し、閉店の時間を迎える上総堂。
最後の客が帰るのを店の外まで見送った千秋が戻って来ると、
仕事を終えて一息ついていた岳玄が言った。

 

「ところで千秋よ。近頃はレギウスなる怪物が猛威を振るっておるが、
 最近何か変わったことはないか?」

 

「えっ? …う、うん。
 この前、野球場にレギウスが出てきてビックリしたけど、あれからは別に…」

 

「そうか。くれぐれも用心するのだぞ。
 世の中随分と物騒になってきておるからな」

 

祖父の言葉に一瞬ぎくりとした千秋だったが、
俊一に相談せず勝手に秘密をバラしてしまうわけには行かないと思い口をつぐんだ。

 

「さて、最後にもう一丁やるか。
 天ぷらは切らしてしまったから、今宵は月見そばで良かろう」

 

「あれ? この後まだお客さん来るの?」

 

もう閉店したにも関わらず、再び厨房に戻って調理を始めようとする祖父に、
不思議に思って千秋が尋ねる。

 

「うむ。敦の奴が東京から戻って来るぞ。
 せっかくだから、千秋も顔だけ出しておきなさい」

 

「お父さんが…?」

 

千秋は目を丸くした。
仕事でしばらく東京に行っていた千秋の父・稲垣敦。
この夜更けに、彼が安土のこの店を訪れるというのである。